1937年南京で何が起こったのか?(その2)

1990年8月、イラクのサダム=フセイン大統領は、イラク軍をクウェート領内に侵攻させました。湾岸危機の始まりです。

10月、米国議会下院の公聴会で、ナイラというクウェート人の15歳の少女が証言台に立ち、涙ながらに訴えました。

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「乱入してきたイラク兵たちは、生まれたばかりの赤ちゃんを入れた保育器が並ぶ部屋を見つけると、赤ちゃんを一人ずつ取り出し、床に投げ捨てました。冷たい床の上で、赤ちゃんは息を引き取っていったのです」

彼女がクウェートの産婦人科病院で目撃した300人以上の乳児虐殺事件は全国ネットでテレビ放映され、イラク兵の残虐行為にアメリカ国民は憤激しました。ブッシュ(父)大統領も、「心の底から嫌悪を感じる。彼らは相応の報いを受けることになる」と怒りを露わにし、国連安保理事会はイラクに対する武力制裁を容認。91年1月、米英軍を主力とする多国籍軍がイラクを攻撃。この湾岸戦争で、10万人以上のイラク兵が殺されて、イラクは敗北(米英軍の死者は200人以下)。イラクは「相応の報い」を受けたのです。

ところが…

解放後のクウェートで「乳児虐殺事件」の取材をしても、何の情報も出てこないのを疑問に思ったニューヨークタイムズ紙の記者がナイラの身元を調査した結果、彼女は駐米クウェート大使の娘で、クウェートには住んでおらず、例の証言はすべて「芝居」だったことが明らかになりました。

米国世論を味方につけるため、クウェート政府が米国のPR会社ヒル&ノートン社に報酬を支払い、同社が「乳児虐殺」の台本を書き、ナイラを「女優」として雇っていたのです。同社は世論の非難を浴びましたが、戦争はすでに米軍勝利で終結しており、それ以上の追及はされませんでした。イラク攻撃という米国の国益に合致したウソだったわけです。

この戦争ではまた、「イラク軍がクウェートの油田を破壊し、ペルシア湾が汚染された」という情報が、油まみれの水鳥の映像とともに流されました。これも実は、油田を爆撃したのは米軍だったことが、あとでわかりました。

PR(ピーアール)という英語は、パブリック=リレーションズの略ですが、「公共の関係」と直訳しても何のことかわかりません。「宣伝」と訳すのが、一番ぴったりします。PR会社というのは、企業や政府の依頼を受けて、主にマスメディア(テレビ・新聞)に対して特定の情報を流すことで、依頼人に有利な世論を作り上げていく会社のことです。

ほとんどのアメリカ人は、イラクとクウェートの位置関係もわかりません。よくわからないイスラム教徒の国が、隣のイスラム教徒の国に攻め込んだと聞いても、何の興味もわかないでしょう。しかし、「イラク兵が保育器の赤ちゃんを床に投げ捨てた」と聞けば、その恐ろしいイメージが頭に焼きつき、「イラク=悪」という図式ができあがります。このヒル&ノートン社のPRは、たとえそれが「嘘」であっても、大成功したわけです。

同じころ、東欧の一角で、もう一つの戦争が始まっていました。ユーゴスラヴィア内戦です。社会主義国ユーゴスラヴィア連邦は、少数民族の独立運動で崩壊しつつありました。多数派であるセルビア人のミロシェヴィッチ大統領は、軍事力による連邦維持をはかり、少数民族との泥沼の戦いに引きずり込まれていきました。

連邦を構成する6つの共和国の一つであったボスニアでは、独立を求めるボスニア人(イスラム教徒)、クロアティア人(カトリック)、連邦に残りたいセルビア人(セルビア正教徒)が三つどもえの内戦に突入。隣人同士が銃を向け合うという悲惨な状況になっていました。サッカー日本代表の監督を務めたオシムは、当時ユーゴ代表監督でしたが、ボスニア人だったためユーゴ代表を辞任し、国外に脱出しています。

小国ボスニアが、強大なユーゴ連邦(セルビア)から独立を勝ち取るには、国際世論、とくに米国政府の独立支持が、絶対に必要でした。一人で渡米したボスニア外相シラジッチは、米国のPR会社ルーダー=フィン社と契約を交わし、反セルビア=キャンペーンを依頼します。この会社は、クロアティア政府にも雇われ、成果を挙げていたからです。

シライジッチ外相には記者会見の機会を提供し、話す内容から、話し方、間の取り方、表情の作り方まで入念にアドバイスしました。新聞社・テレビ各局の担当記者には、「ボスニア通信」というレポートを送付し、毎日、毎日、セルビア人がどのような残虐行為を働いているか、訴え続けました。大統領府、議会の指導者に対しても、何度も手紙を書き、シライジッチ外相との会談をセッティングしました。

実際には内戦だったわけですから、セルビア人民兵も、クロアティア人民兵も、ボスニア人民兵も、敵対する民族の一般市民に向けて発砲しています。しかし、ルーダー=フィン社は「セルビア人の残虐行為」だけをフレームアップ(誇大広告)したのです。この結果、テレビの3大ネットワークや大手新聞社も、ボスニアに取材班を送り込み、取材合戦が過熱しました。

ボスニア内戦における「セルビア人の戦争犯罪」というイメージを決定的なものにしたのは、セルビア人が「民族浄化」を行い、ボスニア人を「強制収容所」に収容しているという報道でした。

「民族浄化」(エスニック=クレンジング)とは、一つの民族を絶滅して「浄化」するという恐ろしい言葉で、第二次大戦中に、ナチス=ドイツ側についたクロアティア人が、連合国側についたセルビア人を虐殺した際に使われています。同時に進行した、ナチスによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)を思い起こさせる言葉です。

「強制収容所」(コンセントレーション=キャンプ)とは、ナチスが主にユダヤ人を収容して死ぬまで働かせた「絶滅収容所」のことです。これらの言葉を使用することによって、ナチスに嫌悪感を持つ米国世論、とくに政財界やマスメディアに巨大な影響力を持つユダヤ人の世論を、ボスニア支持、反セルビアに結集させることに成功します。実は、ルーダー=フィン社の経営者デヴィッド=フィンも、ユダヤ系米国人です。

英国のITNテレビは、ボスニア北部セルビア人武装勢力が管理する収容所の取材を許されました。そこで見たものは、ボスニア人民兵を収容する捕虜収容所であって、ナチスの「強制収容所」とは別のものでした。しかし、この取材班に同行したカメラマンが撮った一枚の写真が 『タイム』誌の表紙として世界に発信され、強烈なインパクトを与えることに…

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鉄条網に閉じ込められた、やせ細った男。これこそ「強制収容所」が存在する、動かぬ証拠とされました。国連人権委員会で、ユーゴスラヴィア代表が「人権侵害などしていない」と主張したとき、米国のボルトン代表が、「どんな言葉より、写真が真実を語っている」といって掲げたのが、この表紙です。

ところが実は、この鉄条網は収容所を囲むものではなく、隣接する変電所のものでした。カメラマンは、わざと変電所の鉄条網越しに、やせ細った男を撮ったことになります。しかし、この写真を見た多くの人々は、半世紀前のユダヤ人絶滅収容所の光景をまざまざと蘇らせたのです。

流れは決まりました。国連総会は、ユーゴスラヴィア連邦(セルビア・モンテネグロ)の国連からの追放を、賛成127、反対6で可決。

NATO軍が軍事介入し、「民族浄化をやめさせるために」セルビア本国を空爆。多くの民間人が犠牲になり、セルビア政府はNATO軍のボスニア駐留を、しぶしぶ受け入れました。

セルビアのミロシェヴィッチ大統領は失脚、逮捕され、オランダのハーグに設置された旧ユーゴ国際法廷で、「人道に対する罪」で起訴され、裁判中に病死しました。

ミロシェヴィッチ大統領は、PRの重要性になかなか気付きませんでした。セルビア側に協力した米国人弁護士デヴィッド=アーニーの証言。

セルビア人は、事実はほうっておいてもやがては自然に知れることになる、と素朴に信じる人々でした。だから、自分たちに有利に世論を誘導するためにはお金をかける必要がある、ということをわかってもらうのに、骨が折れましたよ

(ここまでは2007年に書いた記事を採録しました)

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さて、「南京における日本軍の虐殺、強姦目撃情報」を伝えたのは、外国人でした。

1938年1月14日 南京安全区国際委員会ラーべ委員長のドイツ上海領事館宛て報告。
「日本軍部隊は統制を失い、市街を略奪し、約2万の婦女子を犯し、数千の無辜の市民を残虐な方法で殺害した
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38年1月21日 上海のNorth China Daily News紙社説。
「南京で1万人の市民虐殺、2万人の強姦があった」
・南京、金陵大学のベイツ教授(米国人宣教師。中華民国政府顧問)の手紙を引用。
・英The Manchester Guardian紙記者ティンパーリー(豪人)が協力。
・ティンパーリーはオーストラリア人。中国国民党宣伝部国際宣伝処の協力者。
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1月22日 蒋介石日記(このとき蒋介石は重慶へ敗走中。南京は見ていない)
「倭寇は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである」

2月 国民党政治部第三庁(宣伝担当)発足。毎週月曜、外国人記者に戦況説明。

3月 宣教師ジョージ=フィッチが南京の記録フィルムを持って渡米、国務省、下院、新聞社で上映。
・フィッチは中国生まれ。妻が宋美齢(蒋介石夫人)の友人。
・1932年の上海天長節爆弾事件のあと、主犯の金九を匿う。
・南京安全区国際委員会のメンバー。

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前列中央左の黒服がラーベ、右端がフィッチ。

7月 ティンパーリー『戦争とは? 日本軍暴行録』
"What War Means: The Japanese Terror in China"/『外人目睹中之日軍暴行』
・世界同時刊行。日本語版は中国亡命中の日本共産党員が翻訳。
・宣教師ミルズ、スマイス、ベイツが全面協力。
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『南京地区の戦争被害』(宣教師スマイスの報告、国民党宣伝部が資金提供)
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1941年春 エドガー=スノー『アジアの戦争』刊行。
「日本軍は南京だけで4万2千人以上の市民を殺した。その大部分は夫人子供であった」
・スノーは米国人ジャーナリスト。延安の毛沢東を取材し、『中国の赤い星』(1937)で毛を賛美。
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アグネス=スメドレー『中国の歌ごえ』
「日本軍は南京で20万人の市民と非武装兵を殺戮し、赤十字病院を襲い、医師と看護婦を虐殺した」
・スメドレーは米国人ジャーナリストでコミンテルンの協力者。
・コミンテルン工作員ゾルゲと朝日新聞記者尾崎秀実を引き合わせる。
・赤十字病院の話は嘘。

「外国人の報告」と聞いただけで中立的な立場かと誤解しますが、彼らはいずれも中国国民党の宣伝部門の協力者であったり、共産党(コミンテルン)のシンパであったりするわけです。クウェートの少女ナイラと同じです。

これらの戦争PRが事実とごっちゃにされて、戦後の戦犯裁判で証拠として採用されます。

1945年10月20日
蒋介石が日本軍戦犯名簿を米国に送付。

11月 南京地方裁判所が日本軍の蛮行に関する聞き取り調査を開始。
「冬のセミのごとく口をつぐみて語らざる者、あるいは事実を否認する者、あるいはまた自己の対面をはばかりて告知せざる者…」が多く、聞き取りは難航。
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46年2月 南京地裁の報告書。
確定犠牲者数30万、未確定20万
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谷寿夫(ひさお)第六師団長、「BC級戦犯」として南京で処刑。
向井少尉・野田少尉、新聞報道の「百人斬り」を事実と認定され南京で処刑。

7月 東京裁判。
ベイツ教授の証言
「城内で1万2千人の男女子供が殺され、揚子江で3万人の中国軍兵士が射殺され、強姦事件は8千」
マギー牧師の証言
「数千人の兵士が二列縦隊で連行されるのを見た」
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東京裁判判決
20万人の殺害と2万件以上の強姦事件
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松井石根上海派遣軍司令官、「BC級戦犯」として東京で処刑。
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こうして、国民党の戦争PRは大成功に終わりました。このあと中国では国共内戦が再開され、共産党が勝利します。中国共産党政権(中華人民共和国)の戦争PRは主に「国民党の悪行」、「アメリカ帝国主義」、「ソ連修正主義」に対するもので、日本の戦争犯罪にはほとんど無関心でした。その証拠に、この時期の中国の歴史教科書には、「南京大虐殺」は一言も出てきません。毛沢東はこういっています。

「日本の皇軍が中国の大半を占領したからこそ、我々はたくさんの抗日根拠地を作り、その後の解放戦争における勝利の条件を作り出すことができたのだ。日本による資本の壟断と軍閥は我々に対して“好いこと”をしたのだ。もし感謝が必要なら、むしろ我々が日本皇軍の侵略に感謝したいと思う
(1961年、訪中した日本社会党の黒田議員に)

日本では、GHQの戦争PR『太平洋戦争史』、『真相箱』で「南京虐殺」が語られ、東京裁判でも認定されましたが、実際に南京を見た日本人ジャーナリストや兵士らが一様にこれを否認し、歴史教科書に載ることもありませんでした。「敵のばかげた宣伝だが、戦争に負けたんだからしょうがない…」と、あえて反論しないという態度だったようです。

ところが、1970年代初頭の日中国交回復前後から日本で南京大虐殺PRが始まり、これが中国に飛び火し、80年代には南京に「大虐殺記念館」が建つにいたるのです。(続く)

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