もぎせかブログ館

アクセスカウンタ

zoom RSS マレー沖海戦とアウン=サン

<<   作成日時 : 2011/12/11 07:51   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 18 / トラックバック 0 / コメント 14

「プリンス=オブ=ウェールズ撃沈の報告は、私にとって第二次大戦中最大の衝撃だった」
          ――ウィンストン=チャーチル

画像


12月8日(ハワイ時間7日)の真珠湾攻撃から70年。現地で行なわれた追悼式典には、120名の生存者が参列しました。80代後半から90代の彼らは、昨日のことのようにあの日のことを覚えているといいます。

日中戦争の泥沼化、米国による日本への石油の禁輸と蒋介石政権への武器輸出、日米交渉の不調、欧州戦線におけるドイツの快進撃…という状況下で、真珠湾攻撃の決断が行なわれたわけですが、その是非はともかく、あの日犠牲になった2400名の若いアメリカ兵に、哀悼の意を捧げます。

さて、真珠湾のことは誰でも知っていますが、2日後のマレー沖海戦のことはほとんど忘れられています。日本海軍航空隊が英国東洋艦隊を撃破したこの戦いで、イギリスは東南アジアの覇権を永久に失いました。4年間の日本の支配を経て、東南アジア諸国民は独立へ向けて立ち上がります。大きく言えば、アルマダ海戦に始まったイギリスの時代が、マレー沖海戦で終わったのです。イギリスは、中東においてはなお覇権を保ちますが、これも1956年のスエズ戦争で終わります。

日中戦争(日華事変)は、中華民国の首都・南京の攻略後も続きました。内陸の重慶に逃れた国民政府(蒋介石政権)を支えたのは、あまりにも広大な国土、共産党の対日ゲリラ、そして米英からの軍事援助でした。

米英の「援蒋ルート」は2本あり、1つは仏領インドシナ、もう一つが英領ビルマです。インドシナはメコン川とホン河、ビルマはエーヤワディー川(イラワディ川)によって中国雲南省と結ばれています。

画像


画像


1940年、ドイツ軍がフランスを占領。ドイツの傀儡と化したヴィシー政権が日本軍のインドシナ進駐を認めたため、米英の援蒋ルートは、ビルマルート1本となりました。

英国本土がドイツ軍の空襲にさらされ、英国植民地のマレー、シンガポール、ビルマに日本軍が迫ってくる。日独伊三国同盟が結ばれる。こういう状況下で、英国首相チャーチルは米国の参戦を促すため、みずから戦艦プリンス=オブ=ウェールズに乗り込み、米国へ向かいます。

1941年8月10日 大西洋上会談
プリンス=オブ=ウェールズ艦上のF.ローズヴェルト大統領(左)とチャーチル首相。
画像


両首脳は、ナチスの専制と侵略を非難し、戦後の集団的安全保障制度(国連)の構築を呼びかける『大西洋憲章』を発表して会談を終えましたが、米国は参戦を拒否しました。

「米国民は、ヨーロッパの戦争に巻き込まれることを望まない。米国は参戦しない。ドイツ軍か日本軍が、我が国を攻撃しない限りは…」

すでに米海軍は日本の暗号電報を傍受解読。ロースヴェルトは日本軍の攻撃が迫っているのを知っていました。

12月8日 日本軍、真珠湾攻撃。ローズヴェルトが対日、対独宣戦。

チャーチル「これで我々は勝った」

同日、日本軍がイギリス領マレーに上陸開始。チャーチルは、戦艦プリンス=オブ=ウェールズと巡洋艦レパルスをシンガポールへ派遣、東洋艦隊へ配属。空母の派遣も予定していたが、出港時に座礁事故を起こしたため参加不能に。これがあとで致命傷になる。

12月10日 マレー沖海戦
英国東洋艦隊が日本軍を迎撃するためシンガポールから出撃。
画像


戦艦プリンス=オブ=ウェールズ、巡洋艦レパルス、駆逐艦4隻の計6隻からなる東洋艦隊。真珠湾攻撃の後だけに、航空戦力の援護なしの艦隊出撃に不安の声もあったが、トーマス=フィリップス艦隊司令官は日本軍を甘く見ていた…

出港直後から日本軍の潜水艦が追尾し、サイゴン(現ホーチミン)の第22航空戦隊指令部に報告。

日本海軍航空隊85機が、英国艦隊を攻撃。プリンス、レパルス両艦が被弾、沈没。



プリンス=オブ=ウェールズに総員退避命令。
画像


司令官トーマス=フィリップスは"No thank you"と退艦を拒み、艦長ジョン=リーチ、逃げ遅れた兵士300名と共に海に沈む。


真珠湾攻撃は、停泊中の米国艦隊を奇襲攻撃したものですが、マレー沖海戦は作戦行動中の英国艦隊に攻撃をかけ、主力艦2隻を撃沈させるという劇的な戦果を挙げました。英国が不沈戦艦と豪語していたプリンス=オブ=ウェールズが戦闘機による攻撃であっけなく沈んだことは、世界に衝撃を与えます。これ以後、戦艦が出撃する時には、必ず護衛の空母を付けるようになりました。

英国東洋艦隊の壊滅により、日本軍のシンガポール攻略、スマトラ侵攻、ビルマ侵攻が可能になります。快進撃を続ける日本軍の中には、ビルマ人やインド人の部隊も加わっていました。アウン=サンのビルマ独立義勇軍(BIA)チャンドラ=ボースのインド国民軍(INA)です。イギリス植民地支配からの解放を夢見て、日本軍に協力した人たちです。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

3回にわたるイギリス・ビルマ戦争に敗れたコンバウン朝最後の王ティーボーは、妻子とともに捕えられ、英領インドに追放されます。ビルマは英領インドのビルマ州として併合されました。多数派のビルマ人は抑圧され、少数派のカレン人は厚遇されて英軍にも採用されます。イギリス得意の分割統治です。

ラングーン大学で英文学を学んでいたアウンサンは、学生会の機関誌に反英記事を載せたことから植民地当局と対立、学生運動のリーダーから革命家に転じ、「われらビルマ人」(タキン党)を組織します。逮捕状が出たため中国のアモイに亡命し、ここで日本軍の諜報部員と接触します。

日本陸軍はすでに日露戦争の時に、明石元二郎(あかしもとじろう)大佐を派遣してポーランドやフィンランドのロシアに対する独立運動を支援しています。第二次大戦でも、英・蘭の東南アジア支配を覆すため、各地の独立運動家を支援しました。ビルマに関しては鈴木将司(けいじ)大佐の「南機関」が担当し、タキン党のメンバーと接触。30名を日本に密航させます。彼らは「三十人志士」と呼ばれ、独立後のビルマの指導者となりました。

鈴木敬司大佐
画像


アウン=サン(1942)
画像


1941年、南機関はビルマと気候の似た海南島に秘密基地を作ってビルマ人に軍事訓練を施し、アウンサンらはビルマ独立義勇軍を創設。日本軍とともにタイ・ビルマ国境を越えて祖国解放の一歩を踏み出します。ビルマ国民はこれに熱狂し、3カ月で首都ラングーンが陥落。

画像


日本ニュース 第94号 ラングーン陥落

ところが即時独立をアウンサンらに約束した鈴木大佐と、軍政を敷きたい日本軍首脳が対立。鈴木大佐は解任されてしまいます。第一次大戦のとき、オスマン帝国に対するアラブ独立戦争を支援した英国陸軍のロレンス大佐(アラビアのロレンス)が、アラブの分割支配をもくろむ英国軍首脳と対立し、解任されたのとよく似ています。

43年、日本は形式的なビルマ独立を承認しますが、軍事・外交は日本が握ったままでした。バー=モウ傀儡政権の国防大臣となったアウン=サンは悩みます。

大東亜会議(1943 東京)
画像

ビルマのバーモウ首相(左端)、南京政府の汪兆銘首相(3人目)、東條首相(4人目)、自由インド仮政府のチャンドラ=ボース代表(右端)

44年3月、インパール作戦発動。日本軍9万(インド独立軍6千を含む)がビルマから英領インドへ侵攻。補給を軽視した無謀な作戦により3万人以上が餓死するという悲惨な結果になり、英軍に大敗。このままではイギリス軍が再びビルマに侵攻する。日本が認めた「独立」は無意味になり、英国は対日協力者として自分たちを抹殺するだろう…アウン=サンはひそかに英国への寝返りを打診、英国もアウン=サンへの支援を約束します。

45年3月、アウン=サンのビルマ軍が駐留日本軍を襲撃。ビルマ共産党とも手を組んで反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を組織。ビルマ軍は連合国軍の指揮下に入ります。

日本軍の撤退後、英国は植民地ビルマを再建するため、アウン=サンを名目的な首相に任命して懐柔しようとしますが、即時独立を求めるアウン=サンはこれに反発します。鈴木少佐は逮捕され、ビルマの軍事法廷でBC級戦犯として裁かれますが、アウン=サンは「ビルマ独立の恩人」として釈放を命じます。結果として日本軍を裏切ったアウン=サンですが、鈴木少佐ら南機関への感謝の気持ちは変わらなかったのです。また、日本軍の兵士もビルマの庶民との信頼関係を築き、敗戦時にはビルマ僧に変装して匿われた日本兵も多かったのです。

47年、インド・パキスタン独立。英国のアトリー首相はビルマにしがみつく理由がなくなり、翌年1月4日のビルマ完全独立を承認。独立が半年後にせまった7月19日、閣議中のアウン=サンは閣僚6人とともに射殺される。32歳。犯人は政敵の前首相の一味だと発表されたが、真相は不明。英国の関与も疑われている。

独立の最大の功労者が暗殺されるというのは、インドのガンディーを思い起こします。

アウン=サン(1947)
画像


英雄的な活躍と悲劇的な死により、アウン=サンの名は不滅のものとなりました。彼の後継者たちは冷戦構造の中で軍事政権を維持し、西側諸国から非難をあびます。一方、彼の一人娘スーチーは英国留学を経て、ビルマ民主化運動のシンボルとなっていきます(戦後のビルマ=ミャンマーについては、稿を改めます)。

アウンサン夫妻と息子たち、一人娘のスーチー
画像


70年前に始まった、あの戦争はいったい何だったのか?

1945年で切ると「ナチズムと日本軍国主義の敗北」で終わってしまいますが、1940年代末までと考えると、日本が始めた戦争が、インド独立運動、ビルマ独立運動、インドネシア独立戦争へと直結していることが分かります。「大東亜共栄圏」が東南アジアの地下資源を欲する日本軍のプロパガンダだったとしても、実際にアウン=サンやボースやスカルノの独立運動が、日本軍の武器援助と日本軍による軍事訓練で可能になったのは事実です。

あの戦争の勝者はアメリカ・ソ連・中国ですが、敗者は日・独・伊だけではありません。広大な植民地を失った英国・オランダ・フランスも敗れたのです。彼らに勝ったのは、アジア諸国です。

南十字星←ビルマで従軍された元日本兵の貴重な手記です。

人気ブログランキングへ 応援クリックお願いします。

ビルマ陸軍行進曲(←日本の軍艦マーチ)

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 18
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた 驚いた 驚いた 驚いた 驚いた
ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!)
面白い
ナイス
かわいい

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(14件)

内 容 ニックネーム/日時
インドネシア独立戦争の時も、現地に残っていた日本兵たちが大東亜共栄圏の実現を信じてオランダ軍と戦っていたという事実を知った時驚きました。
後にインドネシア等東南アジアで反日暴動が頻発したのは残念ですが、ここらの国とは友好を保っていきたいですね。
アカイア人
2011/12/12 00:24
お忙しいところ失礼します。

オスマン帝国におけるのティマール制と徴税請負制について明快な解説をお願いしたいのですが…

よろしくお願いします。
アップルぼーい
2011/12/12 17:39
アカイア人様
インドネシア反日暴動の時はスハルト独裁政権でしたから、反スハルトデモはできません。スハルト政権に莫大なODAを与え、トヨタをはじめとする日本企業を進出させた日本が標的になったのです。同じ理由でスハルト政権と結託する華僑も標的になりました。

タイの反日デモは、日系デパート進出に反発した華僑がバックにいました。華人は富裕層が多く、反日デモに動員された大学生の多くが華人でした。

いずれにせよ、日本企業の搾取に抵抗する現地人労働者、などという単純な見方はファンタジーです。

アップルぼーい様
ティマール制=イクター制≒欧州の荘園制なので、領主(軍人・官僚)が徴税権を持ちます。あんまり取りすぎると所領が荒廃しますので、ほどほどとなります

徴税請負制の場合は、国家が徴税権を持ち、実際の徴税業務を請負人に任せます。NHKの受信料徴収みたいなもの。請負人はノルマを果たさないと解雇されますので過酷に取り立て、民衆の恨みを買います。化学者のラヴォワジェは徴税請負人として生計を立てていたため恨まれ、仏革命でギロチンに送られています。
管理人
2011/12/13 00:34
>いずれにせよ、日本企業の搾取に抵抗する現地人労働者、などという単純な見方はファンタジーです。

やっぱりそうですか。俺も現地人の思惑や利害が絡み、結果とし反日暴動に発展した、くらいの認識はありました。詳しい御説明ありがとうございます。
アカイア人
2011/12/13 01:59
ニクソンショックについて。

世界恐慌後に、各国は金本位制を廃止しましたが、
アメリカはブレトンウッズ体制で再採用、しかしニクソンがまた廃止した、のでしょうか?
受験生
2011/12/13 21:22
そういう理解でいいでしょう。もっと厳密にいえば、ブレトン=ウッズ体制では、金と交換できるドルを基軸通貨としたので、「金ドル本位制」といいます。
管理人
2011/12/14 00:55
お忙しい中失礼致します。

ポルトガルのブラジル領有なのですが、僕はてっきりカブラルが到着して、それを根拠にトルデシリャス条約でボルトガルの領有が決まったと思っていたのですが、トルデシリャス条約の方が先である事を恥ずかしながら最近知りました。という事はカブラルが到着する前に、ブラジルはポルトガル領有である事は決まっていたのでしょうか?
ウェスパシアヌス
2011/12/15 22:36
質問失礼します。
資料集に自分のメモで、イギリスの選挙法の改正は資本家と労働者を分けるためだ、と書いてあったのですが、意味がわからないので解説お願いできますか?
よろしくお願いします。
アイスキュ
2011/12/15 22:59
ウェスパシアヌス様
トルデシリャス条約(1496)はコロンブスの第1回航海の2年後で、西インド諸島の存在がようやくわかった段階。とりあえず大西洋の真ん中で線を引いたのがこの条約です。

ブラジルに初めて到達したのは、コロンブス艦隊にも参加したヤーニェス=ピンソンです(1500年1月)。彼は、アマゾン川流域を探検しています。(教科書には載ってません)

同年、ポルトガルはガマに続く第2回インド遠征隊を派遣、指揮官のカブラルは途中でブラジルに「漂着」(1500年4月)。トルデシリャス条約を根拠にブラジルはポルトガル領だと主張しました。これは「漂着」じゃなくて「わざと」でしょう。つまり国際条約なんてものは紙きれですから、実際に軍隊を送ってブラジルを実効支配する必要があったのです。スペインもこれを追認します。

アイスキュ様
英国の選挙法改正で資本家と労働者を分断したのは、第1回と第2回です。

第1回改正(1832)は自由党グレイ内閣が産業資本家に参政権を付与し、保守党の基盤である地主に対抗し、産業資本家を自由党の支持基盤とします。労働者を除外したのも、産業資本家の利益のためです。

第2回改正(1867)は保守党ダービー内閣が都市労働者に参政権を拡大。産業資本家のもとで低賃金に苦しむ都市労働者を、保守党の支持基盤として取り込みます。敵の敵は味方、という理屈です。
管理人
2011/12/16 03:30
ありがとうごさいます。


という事はカブラルが到着しようとしまいとポルトガルの領有は決まっていたが紙切れじゃあ不安なので、漂流という名目で実行支配したということでしょうか?
ウェスパシアヌス
2011/12/16 22:47
そういうことです。公式記録では「漂着」ですが…

×実行支配
○実効支配 effective control
の原則ですね。
管理人
2011/12/17 01:20
お忙しいところ失礼します。

慶応大学法学部2009年大問2 (39)(49)

ボトシ銀山→この銀山が所在する国の独立と建国を指導して、初代大統領に就任した人物は誰か。

答は31 シモン=ボリバルなのですが、いろいろ調べるとボリビア初代大統領 アントニオ=ホセ=デ=スクレというのも、あるのですが、どうなのでしょうか?教えてください。

ちなみに、選択肢にスクレはありませんでした。


アルベルトゥス=マグヌス
2011/12/17 21:55
スクレはボリバルの側近No.1で、同じベネズエラ出身です。南ペルーの解放の功績により、南ペルー議会は国名をボリビア、首都をスクレと命名し、臨時大統領にボリバルを選出します。

しかし地元の大コロンビアで反乱が起こったため、ボリバルは間もなく帰国。スクレが正式な初代ボリビア大統領となります。そのスクレも現地有力者たちとの折り合いが悪く、2年で辞任、帰国してしまいます。

選択肢にスクレがないなら、ボリバルで問題ないでしょう。出題者はスクレを知らなかったのでしょう。大学の先生が何でも知ってるわけではありません。自分の狭い専門分野のことしか知らないのが普通です。
管理人
2011/12/18 00:54
わかりました。
ありがとうございました。
アイスキュ
2011/12/18 23:32

コメントする help

ニックネーム
本 文
マレー沖海戦とアウン=サン もぎせかブログ館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる