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zoom RSS 占守(シュムシュ)島――帝国陸軍最後の戦い

<<   作成日時 : 2011/08/15 01:01   >>

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昨年書いた記事に加筆したものです。
一人でも多くの方に、事実を知っていただきたく…

* * * * * * * * * *

8月6日 米軍、広島に原爆投下。

8月7日 ソ連が対日参戦、満州に侵攻。

8月9日 米軍、長崎に原爆投下。

8月15日 昭和天皇の玉音放送で、ポツダム宣言受諾を発表。戦闘停止。


北の満州から西の中国、南のフィリピンに至るまで、全日本軍は戦闘を停止し、連合国軍に降伏。4年に及ぶ太平洋戦争(日本側の呼称は大東亜戦争)が終わったはずでした。ところが、8月18日未明から21日にかけて、日本軍とソ連軍が激突し、日本軍の勝利に終わった戦いがあります。

占守島(しゅむしゅとう)の戦いです。

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狩猟民族のアイヌが住んでいた樺太・千島には、18世紀に北からロシア人、南から日本人が侵入し、幕末の日露通商条約(1855)で択捉(えとろふ)島の北の海峡を国境とし、樺太(サハリン島)については「両国民雑居の地」としました。ところが、クリミア戦争(1853-56)に敗れてバルカン進出を断たれたロシアが極東進出を強化。清朝から沿海州を奪い、樺太でもロシア人と日本人との紛争が激化します。日本政府はロシアに侵略の口実を与えぬため国境の最画定を求め、ペテルブルクで樺太千島交換条約(1875)を結びます。条約により、樺太全島がロシア領となり、占守島以南の千島全島が日本領となりました。明らかにロシアに有利な条約ですが、当時の国力差を考えれば、いたしかたなかったでしょう。

30年後の日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約(1905)北緯50度以南の南樺太を併合します。千島列島には変化はありません。さらに10年後、ロシア革命が起こり、共産主義のソヴィエト連邦が成立します。占守島は、仮想敵国ソ連と対峙する国境の島として、日本陸軍の精鋭部隊が配属されます。

日米関係が悪化した41年、モスクワを訪れた松岡外相は、スターリンとの間で日ソ中立条約を結びます。ヒトラーとの戦いを準備していたスターリンは、日本と手を組むことにより、シベリアの部隊をヨーロッパ戦線に送り込むことができました。独ソ戦争でソ連が勝利できたのは、日ソ中立条約のおかげです。一方、日本軍も、満州の部隊を引き揚げて太平洋戦線に投入することができました。戦争末期、満州の日本軍は武器も兵員もガラガラの状態でした。しかし占守島は、アリューシャン列島からの米軍の侵攻に備える最前線として、武器弾薬も豊富にありました。加えて、満州から引き揚げてきた第11戦車連隊(十一を「士」と読み、「士魂(しこん)連隊」と自称)が占守島に配属されます。

45年2月、ヤルタ会談。ドイツの敗北を時間の問題と見越したスターリンは、軍事的空白となっている満州に着目します。密かにソ連軍をシベリアに戻し、日本を奇襲攻撃すれば、日露戦争の恨みを晴らし、満州の利権を手に入れることができる…泥沼の対日戦争で疲れ果てた米国のF.ローズヴェルトと会談し、「ドイツ降伏後3カ月以にソ連が対日参戦する」、「南樺太・千島をソ連に引き渡す」ことを密約します(ヤルタの密約)。何も知らない日本政府は、中立国ソ連に対して日米戦争の仲介を依頼。ソ連はもちろん黙殺します。


5月7日、ドイツ降伏。ヨーロッパ戦線に展開していたソ連軍は、シベリア鉄道で満州国境へ移送されます。7月のポツダム会談では、ドイツ・東欧の占領政策をめぐってソ連と米・英が激しく対立。スターリンは、

北海道北部(釧路と留萌(るもい)を結ぶ線の以北)のソ連への割譲

をトルーマンに要求。米国のトルーマン大統領はこれを拒否。ソ連参戦による極東の共産化を恐れ、ソ連参戦前に日本を降伏させるための最終手段――原爆投下を、命令します。

ヤルタの密約は国際法上の効力はありませんし、トルーマン政権になってから米ソ関係は険悪化していましたから、米国はさっさと日本と講和し、ソ連の分け前はなくなるのではないか。自分の取り分は、自力で確保しなければならない。そう考えたスターリンは、ソヴィエト軍に満州・南樺太・千島への侵攻を命令しました。日ソ中立条約は5年間(1941-46)有効だったので、ソ連の対日参戦は重大な国際法違反となります。この「日ソ戦争」がソ連による侵略戦争であることは明白で、スターリンは「侵略戦争を謀議したA級戦犯」として東京裁判で絞首刑になるべきでした(にもかかわらず、東京裁判では審議もされなかった)。

東欧でソ連が行ったことを見れば、占領地はソ連領土として併合するか、親ソ政権(共産党政権)を樹立して保護国化しています。南樺太と千島全島はソ連に併合され、北朝鮮には親ソ政権が樹立されました。満州においては、旅順・大連など日露戦争で日本が獲得した利権を奪回します(注)

(注)中国共産党政権(中華人民共和国)の成立(1949)後、毛沢東はモスクワを訪問してこれらの利権の返還を要求。米中接近を恐れるスターリンは、しぶしぶこれに応じた。これが中ソ友好同盟相互援助条約(1950)。

もし日本軍が無抵抗のまま降伏していれば、米軍が進駐する前のソ連軍の北海道侵攻もありえたでしょう。その場合、スターリンが要求したように釧路・留萌以北のソ連への併合、あるいは「日本人民共和国」の樹立という可能性もあった。

しかし、満州の日本軍は8月19日まで抵抗を続けたのちようやく武装解除され、占守島の日本軍は8月21日まで抵抗してソ連軍に勝利を収めたのです。

* * * * * * * * * *

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満州から占守島に転属された戦車第11連隊(士魂部隊)を率いたのは池田末男連隊長。騎兵学校の教官の出身で、部下からたいへん慕われました。学徒出陣(1943)で配属された学生兵に対する池田連隊長の言葉。

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大学在学中の者まで動員せねばならぬところまで戦火を拡大してしまった軍上層部は間違っている。貴様たちはご両親が苦労して大学にいれて、その得た知識を国のため生かすのが使命で、その知識を命に代えてしまうのは残念である。自分たち軍人とは、国民皆兵の時代とはいえ、全く立場が違うはずだ」


8月16日、池田連隊長の訓示。

「昨日、陛下はポツダム宣言の受諾を表明された。まもなく武装解除の軍使が来るだろうが、わが連隊も準備に取り掛からなければならない。…諸君は今日まで、規律正しく労苦によく耐え、健闘してくれた。指揮官として心から礼を言う。今日の壕掘りの作業は一切中止して、十分に休養するように」

冬はマイナス15度、吹雪が荒れ狂う極寒の地で任務を全うした兵士たちへのねぎらいの言葉です。敗戦の苦みと、一人の部下も失わずに故郷に帰すことができるという安堵が入り混じった言葉です。


北海道の第五方面軍司令部から打電。

「18日16時の時点で停戦し、こちらから軍使を派遣。…なお敵が戦闘を仕掛けてきたら、自衛のための戦闘は防げず」


この場合の「敵」とは米軍のことで、ソ連軍の侵攻は予想していなかったようです。「敵」の上陸予想地点である北東部の竹田浜には、大砲が設置されました。他の海岸は断崖のため上陸は困難だったのです。


17日、トルーマン大統領からスターリン首相に充てて書簡。

ソ連軍の千島列島占領は容認するが、北海道占領は拒否する

スターリンはこれに回答せず、ソ連軍に南樺太・千島侵攻を命令。


18日午前2時。濃霧。監視所から報告。

「敵上陸、兵力数千人。国籍不明!」


竹田浜に陣を敷いていた歩兵282大隊の村上大隊長は命令。

「軍使が夜中に来ることはない。射撃開始!」

ソ連軍もロパトカ岬からの砲撃を開始。


報告を受けた幌延島の第91師団本部から命令。

「占守島の戦車連隊、歩兵73旅団は敵を海に叩き落とせ。幌筵島の歩兵74旅団は占守島に移動、援護せよ」


18日午前3時半 敵主力部隊が竹田浜に上陸、日本軍の砲火をかいくぐって、四嶺山に到達。282大隊が敵に包囲される。

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報告を受けた池田連隊長が訓示。

「我々は大詔を奉じ家郷に代える日を胸に、ひたすら終戦業務に努めてきた。しかし、事ここに至った。もはや降魔の剣を振るうほかはない。そこで皆にあえて問う。


諸氏は赤穂浪士となり、恥を忍んでも将来に仇(あだ)を報ぜんとするか、あるいは白虎隊となり、玉砕(ぎょくさい)もって民族の防波堤となり、後世の歴史に問わんとするか。(注1)

赤穂浪士たらんとする者は一歩前へ出よ。白虎隊とならん者は手を挙げよ」

(注1)赤穂(あこう)浪士…1701年、江戸城内で吉良上野介(きらこうづけのすけ)に侮辱され、斬りかかったため切腹を命じられた浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の家臣47人らが、9カ月後に吉良邸に討ち入り、吉良を殺害して主君の仇討ちをした。

(注2)白虎隊…会津(あいづ)藩の少年兵(16〜17歳)。戊辰(ぼしん)戦争中、幕府側に着いた会津藩に従って飯盛山に立てこもり、官軍に抵抗を続けたが、鶴ヶ城が黒煙に包まれたのを見て落城を悟り、20名が自決した。


全員が歓声を上げて両手を挙げる。「ありがとう」と連隊長。
「連隊はこれより全軍を挙げて敵を水際に撃滅せんとす」
連隊長は先頭を進む戦車の砲身に日章旗を手にしてまたがる。30数台の戦車が続く。

18日午前6時20分 戦車連隊、ソ連軍が包囲する四嶺山麓に到達。

連隊長は学徒出陣の少年兵に命令。
「お前は、生きて帰れ」


6時50分 池田連隊長より師団指令部あて打電。
「池田連隊は四嶺山の麓にあり、士気旺盛なり。

〇六五〇、池田連隊はこれより敵中に突入せんとす。祖国の弥栄(いやさか)を祈る」

午前中いっぱい、四嶺山から竹田浜にかけて、激烈な白兵戦が展開されます。竹田連隊長の戦車に敵の対戦車砲が貫通しますが戦闘は続行され、午後にはソ連軍を竹田浜に追い詰めました。ソ連軍は戦車部隊を持たなかったのが致命的でした。


(ソ連側の発表)
日本兵の死傷者 1018
ソ連兵の死傷者 1567

(日本側の推定)
日本兵の死傷者 約600
ソ連兵の死傷者 約3000
(生き残った日本兵はシベリアへ抑留され、きちんとした調査ができなかった)


午後3時 停戦交渉はじまる。ソ連側は日本軍の武装解除を要求。この間に、島民約500人(缶詰工場の従業員)は複数の船に分乗して北海道へ向かいます。


8月19日 ソ連共産党機関紙『イズベスチア』の記事。
占守島の戦いは、満州・朝鮮における戦闘よりはるかに損害が甚大であった。8月19日は、ソ連人民の悲しみの日である


21日 ソ連軍カムチャツカ防衛区司令官グネチコ少将が、日本軍の降伏・武装解除の最後通牒を出す。

同日午後9時 ソ連軍艦上で堤(つつみ)師団長が降伏文書に調印。

グネチコ司令官
われらは1日で占守島を占領する予定であった

堤師団長
そちらがその気と分かっていたら、わが日本軍は君たちを海へ叩きこんで殲滅(せんめつ)したであろう

23日 日本軍武装解除。日本兵は捕虜として、ソ連軍に使役される。

ソ連軍は千島列島を南下し、日本軍を次々に武装解除。一方、南樺太を占領したソ連軍は、国後島・択捉島を占領し、日本軍を武装解除。スターリンは千島列島をソ連に併合するが、北海道占領は断念した。

9月2日 東京湾の米国戦艦ミズーリ上で、重光外相が降伏文書に調印。

9月 ようやく遺体回収が許され、池田連隊長の遺体も発見された。焼け焦げた戦車内で、立ったままの壮絶な戦死だった。

10月 日本兵捕虜は行き先を告げられないままソ連船に乗せられ、シベリアへ抑留される。日ソ共同宣言(1956)までシベリア抑留は続き、極寒の地での強制労働で10%が死亡(これも明白な国際法違反)。

池田連隊長以下、数百名の兵士たちは、こうして8月15日の「終戦」後の戦闘で命を落としました。

彼らが、祖国の名誉と独立のため命をささげた英霊であるのか、好戦的な軍国主義者が引き起こした愚かな戦争に駆り出された犠牲者であるのか、その判断は、皆さんに委ねたいと思います。


現在、北海道の防衛に当たる陸上自衛隊の第11旅団第11戦車大隊は、
終戦後にもかかわらず不法な侵攻に敢然と立ち向かい勇戦敢闘した旧戦車第11連隊将兵の「士魂精神」の伝統継承を決意し、昭和45年以来、「士魂戦車大隊」と名乗り練武共同の無形の礎として育んできました。
(陸上自衛隊第11旅団HP)http://www.mod.go.jp/gsdf/nae/11d/organization/sensha.html

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▲ 日本陸軍の九七式中戦車(Wikipedia)

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▲ 占守島に残る日本陸軍の戦車(共同)


日本軍戦車展示へ 占守島
ロシアが 「歴史的な文化遺産」として博物館で展示へ
太平洋戦争で日本の降伏後にソ連軍と日本軍が交戦し、双方に多数の死傷者が出た千島列島最北端のシュムシュ島(占守島)に残る旧日本軍の戦車を、ロシア極東サハリン州が「歴史的な文化遺産」として今年9月を目標に州都ユジノサハリンスクの州立郷土史博物館で展示する計画を立てていることが27日、分かった。

シュムシュ島では日本が降伏後の1945年8月18日未明、ソ連軍が上陸し奇襲攻撃。武装解除を進めていた日本軍守備隊と戦闘になり、日本側の調査などによると、5日後の停戦協定までに日本側約350人、ソ連側約3千人が死亡し、「終戦後の悲劇の島」として知られる。

サハリン州によると、シュムシュ島には現在、10両以上の旧日本軍戦車が残るが、保存状態が良い1両を今年6月にサハリン州へ移送する予定。(2010.2.27 18:48 共同)

【ロシア】対日戦勝記念日
「日本の北方領土返還要求は歴史の捏造」と上院議長

日本が第二次大戦の降伏文書に署名した9月2日をロシアが事実上の対日戦勝記念日に制定したのを受け、極東各地では同日、戦勝65周年を祝う式典や軍事パレードが行われた。サハリン(樺太)の行事では、ソ連の対日戦を「解放」戦争だったとする発言が政官界から相次ぎ、ミロノフ上院議長は日本の北方領土返還要求を「歴史の捏造(ねつぞう)だ」と断じた。

新記念日の正式名称は法制定の過程で、「第二次大戦終結の日」と和らげられた。しかし、その狙いが、ソ連による日ソ中立条約を破っての対日参戦や北方領土占拠の正当化にあることが改めて鮮明になった。

北方領土を事実上管轄するサハリン州の州都ユジノサハリンスクでは2日、軍事パレードを含む式典が行われて市民ら数千人が参加したほか、「第二次大戦の教訓と現代」と題する「国際学術会議」が開かれた。

ミロノフ議長はこの会議で、「ソ連軍は中国東北部や北朝鮮、南サハリン、クリル諸島(千島列島と日本の北方四島)を解放した」と主張し、「勝利を祝うことは、戦争の結果見直しを許さないとの警告でもある」と述べた。また、州高官は式典で、ソ連は対日戦で「ロシア固有の領土を取り戻した」などと演説し、「偉大な勝利」を祝福した。

この日は極東の沿海州やカムチャツカ地方などでも式典や軍事パレードが行われ、中露国境のアムール川沿岸では中国側との合同行事も予定されている。
(2010/09/03(金) 10:08:25 産経)


占守島の戦い 士魂連隊生存者の証言

http://www.youtube.com/watch?v=z9sQiUyzlWc&feature=channel

http://www.youtube.com/watch?v=kFKPn3Cwej8&feature=relmfu

ロシア対日戦勝記念日と北方領土問題

http://www.youtube.com/watch?v=Co6M6c0n10Y

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
今、NHKで特集やっていたのですが。朝鮮王室儀軌って何ですか? 返還するなら、コピーとっておかないとマズイですよね?
まこと
2011/08/19 22:57
朝鮮王室儀軌は朝鮮王朝の儀式の図解書です。原本は江華島に保管されていましたが1866年に侵攻したフランス軍に略奪されてパリの国会図書館に運ばれ、コピーの一つが、日本統治時代に朝鮮総督府を経由して日本の宮内庁に運ばれました。

韓国は日仏両国に返還を要求し、フランスのサルコジ政権は返還ではなく「貸与」(5年ごとの契約更新)という形で事実上の返還に応じ(2010)、日本は菅内閣が韓国併合100年の記念事業として返還しました。

長崎県壱岐の安国寺所蔵、重要文化財・高麗版大般若経は1994年に盗まれ、翌年、シミの位置までそっくりな高麗版大般若経が韓国で「発見」され、韓国の国宝に指定されました。

兵庫県加古川市の鶴林寺所蔵、高麗仏画・絹本著色阿弥陀三尊像は2002年に盗まれ、2004年に韓国で「発見」されました。文化財専門の韓国人窃盗団がいるのです。

いずれも韓国側は「個人の所有」「盗品とは知らずに買った」という理由で返還に応じていません。朝鮮半島儀軌の返還はいいのですが、相互主義にすべきでしょう。

パリのルーヴルやロンドンの大英博物館は帝国主義時代の略奪品の宝庫です。ギリシア政府もパルテノン神殿のレリーフの返還を要求していますが、イギリス政府は拒否しています。
管理人
2011/08/20 03:03
こんにちは。夏期講習で、先生の「東大世界史」をとりたかったのですが、どうしても日程が合わず他の先生の講座(東大世界史)をとりました。
先生の講座を受けた人に聞くと、システム論など、東大に特化したとても実のある授業をしてもらった、と聞きました。
私が受けた別の先生の授業もためになるものでしたが、先生の授業内容とはかなり異なるもののようです。
先生の東大世界史の内容を知りたいのですが、サイトにアップされているプリントを見るだけでは不十分ですよね……講座を取れなかったのは自分の都合なので仕方ないですが、先生がお話しされた内容のプリントなどは、アップされない予定ですか?

教えてください。お願いします。
受験生
2011/08/22 15:46
「東大世界史」の解説プリント、録音はありません。授業で配布した穴埋めプリントは、Lectureにアップしてあります。これをやっていただいて、あとは受講した方のノートを見せてもらってください。質問があれば私が対応します。
管理人
2011/08/23 00:25
初めてのコメントになります。先生の講義を受けている友人から先生のことを知りました。

戦後70年くらいになった今、改めて第二次大戦等の分析などを感情抜きですることができる、いやむしろそうするべき段階にあると思います。

日本史という枠内で考えると、どうしても感情が込もってしまい、(特にネットの言論で)日本の戦争行為を少しでも肯定的に捉えたら左翼に、否定的な面を挙げたら右翼に叩かれてしまうのですが、そういったしがらみから解放された所に到達してほしいものです。
なんだか、「右⇔左」の対立にとらわれ、自分で考えることを放棄してしまった人をよく見かけます。


志望校の関係で歴史二科目を履修しているのですが、世界史を学ぶことは(比較的)そういう偏った見方から逃れることに繋がるのかな、と思います。
世界史には、高い視点から国家間の関係を見渡し国際問題を考えることの重要さを教えてもらった気がします。

札幌校在籍ゆえ、先生の講義を直接受けることはないかと思いますが、懸命に世界史を勉強していこうと思います。
duck
2011/08/24 22:07
「日本史」では、日中関係・日韓関係を二国間関係でしか捉えられず、加害・被害史観で話が終わってしまいます。日本が非武装化すれば、アジアは平和になるなどというファンタジーが拡散する。

「世界史」の中で、中印関係・中越関係・中露関係をきちんと学べば、日本が採るべき道はおのずと明らかになります。歴史学は、右・左の神学論争ではありません。過去の現実から出発し、未来の現実を変えうる学問です。

札幌校出講の予定はありませんが、「もぎせか資料館」に講義の録音をアップしていますので、ご利用ください。
管理人
2011/08/25 01:01

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